鯛のまるごとポシェ、ベアルネーズソース. 魚介のクリームシチュー. … 20150425 13 8. 切り身で作るアクアパッツア. もともとは1988年に和製ユーロビート「GYPSY QUEEN」をヒットさせたシンガーで、90年代に入るとお色気路線を更に強調。グラビアモデルのAYUMIとセクシーユニットを組んだりしたが人気を保てるはずもなくヘアヌードを披露した。また、翌1995年には宇宙企画から「ハードコアな夜」をリリース。宇宙企画はアダルトビデオレーベルだがファックシーンが長いといったことを除いて作りはVシネマそのものという中途半端な内容だった。現在活躍するモデルのSHIHOはこの当時、矢野志保と名乗っていたのでSHIHOのオリジネーターは彼女に違いないのだが末期はストリップ劇場にまで出ていた。現在の芸名は広田レオナ。かつては広田玲央名としてバレリーナを目指しベルギー留学まで果たすも身体を壊して帰国。その後、作家・村上龍による初監督映画「だいじょうぶマイ・フレンド」(1983年)のヒロインに抜擢され芸能界デビュー。ヌードを披露するなど話題性もあったが映画は大コケ。また、映画と同名タイトルの主題歌で歌手デビューを果たしたものの失笑を買うほどの音痴ぶりだった。こちらは個性派女優として再び脚光浴び出した頃にリリースされた初写真集。セルフシャッターを使って自ら撮影したという意欲作でスクリーンでは見せたことのないヘアをさらしていた。70年代後半からアグネス・ラム人気を受け多くのハーフモデルが出現したがキャティもそのひとり。沖縄基地勤務のアメリカ人の父と日本人の母親との間に生まれ同地でスカウトされた彼女。1979年JAL沖縄キャンペーンガール、同じくハーフモデルのセーラと共演したコーセーCMで見せたビキニショットが鮮烈だった。あれから15年近くの年月を経てリリースされたのがこちらのヘアヌード写真集。あのトーストボディが健在だったばかりか当時は水着で隠されていた箇所が拝めることに。ヘアヌードブーム人気が頂点に達していたこの頃、白羽の矢が立ったのは何も若い女性タレントだけでない。青木エミは一世を風靡した70年代の資生堂モデル。スパイダースの井上順夫人としても知られていたが1982年に井上と離婚。この当時45歳。そんな年齢でも臆せずにヘアヌードになるのだから恐るべしである。雪野真由美「禁漁区」 1994年11月10日発行 ワニマガジン社1985年の第4回ミスマガジンに選ばれ、1986年のNHK連続ドラマ「ジニーがやって来た」でデビューした八木さおり。同ドラマの挿入歌をB面にして歌手デビューも果たすが、当時は水着グラビアで見せる大きなバストが評判になっていた。致命的だったのは悪名高き映画「パンダ物語」(1988年)にヒロインに抜擢されたこと。中国ロケの際に当局に拘束され長期に渡って日本を不在という事態に...。新曲リリースが1年近くないなど映画が公開される頃には完全にアイドル戦線から脱落してしまっていた。同映画の主題歌を最後に歌手を廃業、ちなみにタイトルが「SAYONARA」だから笑えない。再び注目されたのが八木小織と改名してのぞんだこちらのヘアヌード写真集だった。週刊プレイボーイ全面バックアップのもと元アイドルが肩書きで大ヒットしたが、少年のような髪型、エグすぎるおっぱい、剛毛ぶりが賛否両論を呼んだ。文学座を卒業した鈴木砂羽が女優としてはまったく芽が出ずヌードモデルなどをして糊口を凌いでいたのは割と有名な話。そんな頃に舞い込んできたのが1994年公開の映画「愛の新世界」でヒロインを決めるオーディション。主役の条件が「脱げる」ことだったのでオールヌードでの審査もあり見事合格。SM嬢という難しい役柄をつとめ上げ、この年の映画祭新人賞を総なめにした。同時に発売されたのがこちらのヘアヌード写真集で映画と連動した企画。スクリーンに挿入された全裸スチールも収録した見応え十分な内容で、撮影した荒木経惟氏の世界に引き込まれること受け合いである。彼女の顔、体型、雰囲気は良い意味で古臭く、アラーキー氏のモノクロ写真と相性は抜群だった。厳密に言えばエロ本での活動歴がある鈴木。そちらは非公認なので本作が紙媒体での初脱ぎということにする。“アイドルいきなりヘアヌード”というキャッチコピーでこちらの初ヘアヌード写真集を発売。おそらく世間の人は西尾悦子って誰?と思ったに違いない。彼女は1989年に「じゃじゃ馬にさせないで」で歌手デビューした西尾えつ子。曲自体はアニメ「らんま1/2」のオープニングテーマだったこともあり有名だが、その歌い手である彼女をテレビで観る機会はほとんどなかった。同アニメのエンディング曲に使われたセカンドシングルもヒットには至らずセクシー路線へ方向転換。幼い顔立ちにきわどいポーズが話題となった3冊のヘアヌード写真集のほかに「新百合族3」(1995年)「でべそ」(1996年)「AnotherXX 赤い殺人者」(1996年)など映画でも脱ぎまくっていた。宝塚音楽学校在学中の1980年には宝塚を題材にした紺野美沙子主演のNHK朝ドラ「虹を織る」に紺野の同級生役として出演していた毬谷友子。1985年に宝塚を退団。鈴木清順監督の映画「夢二」(1991年)で沢田研二演じる夢二を虜にする人妻役で注目を浴びる。これはタイトルの通り1994年時点の彼女をとらえたもので今のところ唯一の写真集で初ヌード作品だ。同年のミス日本に出場してミスフラワー部門を受賞。グランプリではないが元ミス日本を名乗り、こちらの初ヘアヌード写真集をリリース、異例の大ヒットとなる。当時は1973年生まれと年齢を1歳サバ読みしていたが現在は正確な年齢に修正している。小学生の頃から東京宝映に所属した三原順子(現・三原じゅん子)は1979年に放映されたドラマ「3年B組金八先生」のツッパリ生徒役で人気を得る。1980年に発売したファーストシングル「セクシー・ナイト」もヒット。アイドルとしても成功を収めたが「GOGO!チアガール」(1980年)で共演した宮脇康之(ケンちゃん)との恋人宣言以降は人気が急下降。その後ヘビーメタルを歌ったりレーサーとして活動したが話題にならなかった。この初ヘアヌードは長いトンネル期に撮影された荒木経惟氏による異色作。荒木氏の作風と三原のキャラクターとの相性は悪く、場末感だけが漂う。結婚したコアラとのアツアツぶりが唯一の話題だった彼女はそのコアラとも離婚。そんな彼女が2010年の参院選に自民党から出馬し当選を果たすのだから世の中何が起こるかわからない。関西テレビ「Wスポット」の司会を務めるなど西日本での認知度が高かった原久美子。高校生だった80年代末に本名の木原久美子で芸能活動を開始。キャビン・レーシングチームのレースクイーンとしてその存在を知られ90年代に入るとキリンビール、ブリジストン、京浜急行のキャンペーンガールとして人気を集めた。さすがは一流キャンギャルだけあって素晴らしい素材。キレイすぎてある意味色気を感じさせないヌードだった。ご存知ピンク・レディーのケイちゃんこと増田恵子。相方のミーちゃんこと根本美鶴代は10年以上前にさっさと脱いでおり、ミーのヌードは主演映画「コールガール」(1982年)と写真集「どうしても、おまえだ。」(1983年)において鑑賞できる。そして今度はケイちゃんの出番。こちらは週刊プレイボーイの1994年新年号(発売は1993年12月末)からのカットで話題性は十分だった。誌面でヌード写真集の発売が間近に迫っていることを伝えていたが発売は延期に...。たった1度きりの幻の裸身披露となってしまった。前年に公開された映画「二十才の微熱」でデビューした片岡礼子。共演者の遠藤雅とのカップルヌードとして話題となったのがこちらの写真集。ヘアヌードでありながら全編モノクロで屈託のない笑顔からはイヤらしさを感じない。脱ぐ役柄が多い彼女、制作費20億円かけて大コケした東映映画「北京原人 Who are you? メカジキコンフィーのプランチャのコショウ風味 カボチャのニョッキとバルサミコのソース . Using saved parent location: http://bzr.savannah.gnu.org/r/emacs/trunk/ Now on revision 99505.
1994年はブームが終焉したセクシーグループのメンバーたちが次々に脱いでいった年として思い出されるが、川田あつ子、八木さおりといった80年代アイドル、後に声優としてブレイクした千葉千恵巳が裸になった記念すべき年である。