さすが平家ゆかりの地。こちらから供養などもされているのでしょうか。 他にはこのお寺の見所として有料になりますが宝物庫もあります。. 本堂の横にある平清盛公乃塚は清盛公の墓であるという伝承があります。見た目からお墓ではないような気がしますが。 境内で普通にお参りできますが、平清盛公のお墓は京都の他所にもあるといわれ、兵庫県にもあるという伝説が。 弁財天堂 平清盛について!子孫や家系図などを含めその生涯を解説! 平清盛は、平安末期に活躍した武将です。 平治の乱で勝利をおさめ、武士として初めて太政大臣に任命されました。 そんな平清盛の生涯、子孫、家系図について解説していきます。 平清盛公の塚. 個人的な感想としては思っていたよりは小さかったかなってところです。土地柄「六道の辻」も近いこともあり、お地蔵さまも多い印象です。清盛・重盛の頃には5200もの一門の邸宅が建ち並んでいたといいます。普段は看護師をしております。好きなものは日本史。特に古代史・平安・戦国・幕末が大好物です。都市伝説・フリーメイソンの話も大好きです。休日は寺社、城、史跡巡りを主にしております。残念ながら平安末期の兵火によって諸堂は焼け落ち、本堂だけが焼失を免れたそうです。この辺りはかつて鳥辺野という葬送地だったそうです。そのため火葬や土葬もせず、しまいには野原に死体を投げるだけでなんてこともあったそうです。実はこちら、前回の「若一神社」の宮司さんにすすめられた場所でした。ちなみに願い事は一つだけです。欲張らないように願い事は定めましょう!↑こちらは「なで牛」さん。お体の辛いところをなでてやるといいらしいです。なぜ勧められたのかはこれからお話しするとして、先に六波羅蜜寺の情報からチェックしましょう。というのも、平安時代の後期頃より平清盛の父・忠盛が境内に自軍を駐留させたことをきっかけに平家の拠点となりました。さぁ、だいぶ寄り道もしましたが、本当の目的地は「平家ゆかりの地」めぐりなのです。さすが平家ゆかりの地。こちらから供養などもされているのでしょうか。清盛座像です。教科書で見たことあるやつですよね。実際に見れますよ!教科書にも載っている重要文化財の「空也上人立像」などもありますが、個人的にはそちらよりも。こちら。ですので、平時はレプリカから観音様をイメージするのがよいのかもしれません。↑まだご覧いただけていなかったら是非一度合わせて御覧ください。そのためこの近辺で平家のなごりを現在楽しめるものは六波羅蜜寺のみです。こちらは本尊である十一面観音菩薩像を模して作られた銅像です。本堂には本尊である十一面観音が祀られており秘仏とされています。そのため公家や貴族はこのあたりに住もうとすることもなかったため、身分が低かった時代の平家はこのあたりに住まわれたそうです。好きなものは日本史。特に「古代史、平安、戦国、幕末」が大好物。休日は寺社、城、史跡巡りを主にしております。中央に円状の石がはめ込んであり、回せる仕組みです。その石を祈りを込めながら手前に三回まわすと願いが叶うそうです。 平清盛公乃塚. 清盛塚の十三重石塔は誰がなんのために建てたのかはわかっていません。【5月11日最新版】神戸市灘区 観光・レジャー施設・温泉・道の駅等の休館...で、江戸時代の初期から、『鎌倉幕府執権・北条貞時が清盛の供養のため建立した』という伝承が流れました。平家と敵対した貴族。保元の乱で死亡。性格のキツイ人だったらしく悪い左大臣ということで『悪左府』とよばれていた。幼い頃は宇治で育ったので『宇治左大臣』ともよばれている。左大臣死後も悪霊になって平家に憑りついている‥とか言われていた。兵庫区の切戸町の一角にある清盛塚。ものの本によるとこの辺りは昔から八棟寺跡と呼ばれているらしいです。叡尊(えいそん)というお坊さんが、弘安8年(1285)8月14日に兵庫で「石塔供養」に臨んだという記録が奈良の西大寺にあります。亡くなった基盛は妻の枕もとに立って「悪左府に宇治川に引きずり込まれてしまった。法華経で弔って欲しい」と訴えます。大正10年(1921)に神戸市の都市計画で移転が必要になったけど、『清盛様のお墓を動かすとは何事ぞ!』と地元ですごい反対運動が起こったんですね。この話を息子嫁から聞いた清盛は専用のお堂を建てて、八人のお坊さんに法華経を毎日読ませました。で、移転の際に清盛塚の発掘調査も行ったけど遺骨らしきものは発見されませんでした。結果、『清盛のお墓かどうか断定できない』ということで移転を強行します。さらに8代将軍吉宗の時代に出版された観光ガイドブックみたいな『兵庫名所記』に『平清盛の遺骨が納められている』と紹介されたのです。清盛の遺体は京都の愛宕で火葬されて、遺骨は清盛の側近だった側近の円実法眼(えんじつほうげん)が摂津の国の経ヶ島に納めた。石塔の足元には丸みを帯びた石に『平清盛公』と彫られています。雪だるまみたいな石も。この経ヶ島は清盛塚のある辺りだと考えられているので、十三重塔の存在もあって先に書いたように十三重石塔=清盛塚=清盛のお墓となったのでしょうね。作られたのは清盛が亡くなった100年後くらいの鎌倉時代(1286年)。昔から清盛のお墓だと伝えられていましたが、大正時代の発掘調査では遺骨はみつかりませんでした。思った以上に迫力のある石塔で、鎌倉時代からずっとそびえ立っていたと思うと少し胸が熱くなりました。地元がこのあたりの方、本当にそう呼ばれているならコメント欄で教えてください♪1968年に神戸出身の彫刻家、柳原義達氏によって作られました。今の清盛塚周辺よりも海の景色は最高に良いので、このあたりに清盛が眠っているならロマンチックですね。ガッカリしたのか、それとも本当のお墓を動かしてないからホッとしたのか‥どうなんでしょうね。このお堂が八棟寺の起こりになったらしいです。八棟寺は清盛の菩提寺とも言われていて山号は「泰平山」だったとも伝えらています。でも吾妻鏡にそう書かれているのなら、それらしい史跡が残っていてもよさげなのに何もないのはちょっと腑に落ちない。この石塔供養は清盛塚のことじゃないか‥と近年の研究で言われています。清盛を供養したという十三重塔の伝承がミスリードになってしまって、もしかしたら清盛塚周辺のどこかに本当の清盛のお墓があるのかもしれません。この記事の最初にも書いたように清盛塚周辺は「八棟寺跡」と地元では呼ばれていました。BE KOBEブルーライトアップ|医療従事者の方々へ感謝の気持ちを伝えた...長らく神戸に住んでいますが、清盛塚を訪れたのは今回が初めてです。でも石塔には弘安9年2月という年月が刻まれているので、鎌倉時代に建てられているのは確かです。『病死』と書かれている記録もあるけど、『源平盛衰記』には馬に乗って宇治川を渡ろうとして溺れてしまったと書かれてます。で、当時の内務省が東京帝国大学教授の黒板勝美を派遣して、清盛塚の調査を行いました。これで十三重石塔=清盛塚=清盛のお墓という図式ができたようですね。そうなってくると本当とお墓はどこにあるの?という疑問がでてきますよね。私の想像では、目鼻立ちが大きくくっきりした顔立ちですが、この像もそんな感じです。時間の流れを感じさせる何気ないモノをみると、ワクワクゾクゾクしてきます。播磨国山田は今の西舞子町の山田川沿いです。アジュール舞子、明石海峡大橋の少し西側でとてもとても景色がいいところです。
兵庫区の清盛塚。ずっと清盛のお墓だと伝えられてましたが、遺骨は入っていませんでした。遺骨は消えたのか?そもそも本当に清盛のお墓だったのか?詳しく調べてまとめてみました。 教科書にも載っている重要文化財の「空也上人立像」などもありますが、個人的にはそちらよりも。 平重衡の墓 平重衡(1157~85)は、平清盛の五男で、母は平時子。左近衛権中将。 治承4年(1180)5月、以仁王・源頼政を討ち、12月には反平氏勢力の拠点である興福寺・東大寺南都攻撃の総大将となり、大仏殿を焼亡させました。 平維盛の墓の観光情報 交通アクセス:(1)芝川駅からバスで30分。平維盛の墓周辺情報も充実しています。静岡の観光情報ならじゃらんnet 平の清盛の嫡孫で、光源氏の再来と称されるほどの美貌の持ち主と言われた平維盛の墓。富士川の合戦後に、平家の